建築から学ぶこと

2007/03/28

No. 76

シューベルトの左手

建築家は、どんな大きさのものでもデザインできるのか?答えはイエス。ただ実際には、小さなスケールの建築を得手とする建築家がいれば、大きなスケール向きの建築家もいる。住宅でのディテールの切れ味を都市計画レベルでも達成することは、技術的には可能であるけれども簡単には結実しない。労力を厭うゆえではないが、どのスケールでも勝負できる才能は希だということである。おそらく、それぞれの建築家によってフィットするスケールがあるだろう。それは自らの経験で見出されるものでもあるが、もともとの関心のありかによっても定まるものである。たとえば、身体に近い小さなスケールに視点がある建築家の都市提案は、小さなスケールの匂いを宿しつづける。フランク・ロイド・ライトのような希なる才能なら「発想の飛躍」はあるだろうが。

ここに、フランツ・シューベルト(1797-1828)という著名な作曲家がいる。若くして人生を終えながらも、ピアノ曲から交響曲・オペラに至るまで、多彩な表現に取り組んだ人だ。彼の本領とすべきは歌曲で、他のジャンルがそれを取り囲むかたちになる。だから彼の場合、どのジャンルの主旋律も<歌>になる。興味深いのは、ピアノで言う「左手の動き」である。支える旋律と刻むリズムがとても堂々としていることだ。小さなスケールに向いたタイプでありながら、実は大きなスケール志向を兼ね備えている。大曲と言われる交響曲第9番や弦楽五重奏曲には、その両面が典型的に表れている。シューベルトは、類希なる才能なのだろう。

だが、ある女性ピアニストによれば、シューベルトは絶対もてないタイプなのだそうだ。あんなにいつも同じ言葉で告白されてはたまらない、というのである。これは彼の、シンプルで美しいメロディーが何度も反復される傾向についての指摘である(<歌>だから当然であるのだが)。でも、建築家こそ、いつも同じデザイン手法で告白しているではないか。ひとつの観念にこだわろうとするのが建築家の性癖であり、それ自体は悪くはない。しかし一方でそこから抜け出す勇気があるのが真の才能なのだろう。分かれ目は、フィットしないはずのスケールでも勝負をかけられるかどうかである。

佐野吉彦

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