建築から学ぶこと

2009/11/04

No. 203

作法のない空間で

ごく個人的な感じ方かもしれないが、エレベーターに乗るのがときおり憂鬱になる。それは、乗りあわせた人が神経質に扉の開閉ボタンを押す姿が好きではないからである。このごろのエレベーターには2、3箇所の表示盤があるために、それぞれに開閉担当がへばり付くような光景が出現したり、キーボードの操作のようにムダのない動きで作業をこなしたりするのを見ると、むしろ滑稽ささえ感じてしまう。百歩譲って、<開>には親切心があるかもしれない。しかし<閉>には、さっさと乗り降りせよ、あんたとは同じ空間を共有したくないから、と言われているような空気を感じてしまう。一連の動きのなかに、親切を受けたと感じにくい印象があるのだ。

茶室には茶室の作法がある。宗教施設には、受け継がれてきた流儀があるだろう。しかし、近代が生み出した個室には、そのような振る舞いのかたちが確立していないのではないか。かつて普通に見られた百貨店のエレベーターガールという職能には、館内案内と安全確認、イメージ形成といった複合的な任務を有していた。それが消えてゆくと、表示盤は、単なる「誰が早押しするかのゲーム機」に成り果てているかのようだ(ちなみにこれは日本固有の現象とも言える)。

あわせて、鉄道の案内放送にもいちゃもんをつけておこう。駅における巨大音量には辟易するが、せっかく自動放送があるのにマイクで同じことを繰り返したり、車内と車外で同じ内容をがなりたてたりするのは勘弁してほしい。そこまでしないと理解できないほど現状は混乱しているのだろうか。また私には到底便利とは思えない<駅ナンバリングシステム>は、なぜ英語放送だけにあるのかも不思議だ。外国人がY-14(ちなみにこれは市ヶ谷)にはどうやって行くのか、と傍の乗客に聞いても応答できない、そんな符号は果たして機能的なのか(ちなみに、アジア諸都市の地下鉄にはこのシステムは浸透している)。

さて、今回は私憤を語るのが目的ではなかった。公共空間が適切で気持ちの良いサービスを提供するために、これらの状況は、建築が十分役割を完結できていない、解決し切っていないことも原因しているのではないか、と問いかけてみたかったのである。

佐野吉彦

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