2011/02/09
No. 265
手紙とは特定の相手に呼びかけるメッセージである。そこには何らかの具体的な目的が伴っている。恩義への感謝、自説の説得、情報共有などを含めて、少なくとも一度はやりとりが往復することになるだろう。確かに「やぎさんゆうびん」(まどみちお・詞)の歌に登場する山羊も、読まずに食べたものの返事は書いている。そうしながらお互いの認識を確認しあっているのだ。その意味で設計図面も手紙というカテゴリーに入れてよいかもしれない。1枚の図面のなかに自らの意図を完結させただけでは、設計は実際には終わっていない。図面を示して意図を確認しあい、手直しを加えながら相互が合意してゆく。それが設計プロセスというものである。
コミュニケーションの歴史のなかで、手段が手紙からメールになりSNSの普及へと多様化が進むと、スピードアップする一方で、ややもすれば反応が刹那的になる。あるいはお互いのアドレス・ページを知り合っているだけで、親密感が成立しないままということもある。もちろん利点ははるかに多く、本来とは逆の向きから関係づくりが始まるのは興味深いが、SNSにおいてもじっくりと意見を交わすことは最小限必要だろう。孫正義氏がツイッターでの政策提案を実現させようとする効果は認めるけれど、政策誘導がネット上でおこなわれるようになると民主主義的手続きから外れる危険をはらむおそれがある。
なので、手紙の持つ効用と効能をもう一度考えてみるべきだと思う。ビジネスにおける手紙は返信期限を求めたとしても、考える余裕は与えている。一方で、季節のあいさつやほのかな恋慕の手紙は相手の返信を束縛しないところに奥床しさが残る。現代のスピードの中にある設計提案においても、じっくりと待ってみることで果報が得られる場合もあると思う。