2018/10/24
No. 644
第129回に、ピアニストで文筆家の青柳いづみこさんを紹介したとき、まず「ピアニストというのは、もともと同時にいろいろなことをしなければならないので、かけもちは慣れている」(「翼のはえた指 評伝安川加壽子」)との彼女の言葉を紹介した。そして私は「青柳さんは複眼的な視点にまたがることを自らの使命(方法論)として選択する。そして両義の上に立つことから生まれる解とは何かについて究め、そこからフィードバックして表現を削り出そうとする手順を踏んでいるのだと思われる」と締めくくった。そのありようからすると、作曲家でありピアニストでもある傑出したひとりの姿に、青柳さんが強く惹きつけられたのはうなずける。「高橋悠治という怪物」という近著は、彼女の快い驚きがぎっしり詰まった本である。
私には、演奏会で出会う高橋さんはいつも謎めいて見える。客席にいてもステージにあっても、満足感を宿しているような、一方で疑い深そうな貌でそこにいる。青柳さんがさまざまな視点から解き明かそうとしているのは、そこにひそむ魂あるいは論理である。自らの創作論、クセナキスやメシアンを見事に弾きこなす腕前に固着しつづけず、<1960年の草月アートセンター>や<水牛楽団>といった歴史の変局点(それらは音楽史に留まらない戦後のエポックである)の中心に立つ経験を持ちながら、自らを絶えず批判的に再構築しようとする音楽家。青柳さんはその思考の生成と転回をひとつひとつ検証しながら、しだいに高橋悠治という巨大な霧の中に立ちあらわれる巨大な架構を探り当ててゆく(「時空にそびえる建築」、と彼女はこの本の中で表現している)。これは高橋さんや、そもそも音楽に詳しくない人にも納得のゆく評伝と言えるだろう。最後に至って建築と音楽の意外な近距離に気づかせる、まさに青柳さんの才知がもたらす落とし方には目を見張る。