2008/01/30
No. 117
「SPACE FOR FUTURE アートとデザインの遺伝子を組み替える」(東京都現代美術館、2007.10.27-2008.1.20)には、建築家を含むさまざまなジャンルの表現者が招かれていた。彼/彼女らが、それぞれの視点からの「場」の提案をおこない、観客をそこに意識的にからませ、「関係性」について考えさせる仕掛けにあふれていた。私が訪れた日、提起される切り口を観客は総じて和やかに楽しんでおり、そこに毒(本当はあるのだが)を感じていないように見えた。カールステン・ニコライの「フェーズ」の霧で充たされた静かな空間、石上純也(建築家)が明瞭なコンセプトでつくった「四角いふうせん」が浮遊する穏やかな風景に、観客はカタルシスを感じている。
人はもはや大きな物語など信じてはいないのではないか。自分が掌握できる視界のなかで安定した物語を心の底で求めている。そして自分の手足でそれを発見したい。この展覧会はそうした時代の根っ子を掘り起こすものとも言える。展覧会での建築家たちは過剰なメッセージを振り撒いてはいなかったが、建築のスタイルは、建築を使う側が自らの物語を読み出すありようへと、変わってゆくことを示唆している。
それは建築のつくりかたが、より周到になることでもある。そこで問われる社会性や公共性、地域性は、素朴な定義では収まらない。誰がどのようにその建築を感じるかを想像し、そのために何を準備できるかについての能力が期待される。建築の表現領域が広がってきていることと、それとは連動するはずだ。ただ「design adDict」誌 第2号に紹介されている、石上のほか乾久美子・藤本壮介・中村拓志ら30代の建築家の仕事は、一見難しそうではない。おそらく彼/彼女らの可能性は、小さなスケールでも大きなスケールでも線の動きがぶれないことにあるだろうと感じる。ここはそれより上の世代とは異なるところ。テクノロジーと冷静なつきあいができているからなのか、過剰な物語を押し付けない仕事をしてゆくだろう。