2006/10/04
No. 52
昨年就任したローマ法王(教皇)ベネディクト16世は、教義に精通している点では他の聖職者の追随を許さないらしい。そのかわり、いささか「お話が難しい」。その法王の発言が、イスラム教徒を刺激してしまうできごとがあった。ドイツにおける講演で、14世紀のビザンチン皇帝が語った発言を引用し、あたかもイスラム教を批判したかのように聞こえたからだった。この日も難解な内容だったのかもしれないが、前後の脈絡を切り取れば過激なものととられた。後日公の場で詫びたことで一応の収束はしたが、多少反動的な人というイメージが残った。
前任のヨハネパウロ2世は58歳で就任し、類まれな行動力によって、各国首脳と対話を重ね、カリスマ的な人気を博している。実は保守的な思想の持ち主ということでは両者は共通していたのだが、78歳になってからの就任では機動性の面では劣る。新しい法王のイメージづくりも難しいところだ。ただ、キリスト教のような世界宗教は、神の言葉が地域事情によって勝手に解釈されることがないよう、教義に詳しい者がきちんと指導することは重要である。法を守ることに厳しい法王を選んだこと自体、間違いではなかった。
それを見るにつけ、昨今の日本は、法律についての畏敬が薄いように思われる。社会的な事件に連動して、法律を厳しくしたり緩めたりする。また、それを急がせる動きも活発だ。技術の進歩、時代の流れという背景は十分理解できるものだが、法律とは基本的にそう安易に変えてはいけないのでは、と思う。この視点をいい加減にすると、個別のポイントを凌げば許されるという風潮を助長する。変えること以上に大切なのは、法律がつくられた精神を皆が正しくわきまえ・ふまえることで、それにより倫理的にぶれのない社会状況がうまれる。たとえば、構造設計は、数値基準をクリアするための技術ではないだろう。公共の福祉のためにおこなわれる尊い行為だと考える。