2016/12/07
No. 551
「現代のテクノロジーは再編成されリミックスされた、かつての原始的なテクノロジーが組み合わさったものなのだ」(*)とケヴィン・ケリーは記し、さらに「これから30年の間に生まれる最も重要な文化的作品や最も強力なメディアは、最もリミックスされたものだろう」(*)と述べている。未来の予測は難しいけれども、現在の延長線上にはあるということだろうか。少なくとも、そこに人間の<能動性>が正しくはたらくべきことは示唆していると思う。リミックスする技術はすでに多くの人々に行き渡っているが、リミックスする主体にある固有の視点については、優劣の差が開いてくるということになる。
たとえば、浅井咲乃のバイオリン(クラシカル楽器)と高田泰治のチェンバロによるベートーベンのソナタを聴くと、確かな技量によってこれら楽器の扱いにくさと真摯に向きあうところから、独自の響きを生み出しているようすが伝わってくる。それは彼らの意思を反映したリミックスにはちがいない。古い楽器に現代にあっても快い空気を吸わせているのは、演奏者に<能動性>があるゆえである。
今や個人の権威や価値は、技術と情報を独り占めすることによっては生まれなくなっている。というのに、多くの社会的規範はそのような時代から一歩遅れており、逆行していることさえある。でも、焦らずにゆこう。「グローバルな経済全体がアトムから手に触れられないビットへと移行している。所有からアクセスへと移っている。コピーの価値からネットワークの価値へと傾いている。常に留まることなく増加してゆくリミックスの世界へと不可逆的に向かっている。法律はゆっくりとだが、それを追ってゆくだろう。」(*)とあるように、いずれ社会は必ず変わってゆく。
という次第で、時代と社会はポジティブな方向にある。能動的に風向きを感じ取れれば、賢く歴史を創りにゆくことができる。ちなみに「すべてがゼロに向かってゆく中で、唯一コストが増加しているのは人間の経験だ-これはコピーできない。それ以外のものはすべて、コモディティー化しフィルターをかけられるようになる」(*)とケヴィン・ケリーは書く。現実的で希望のある語りかけだ。