2011/08/31
No. 292
ヴィトルヴィウスの理論を見出したのがパラディオで、バッハを再評価したのがメンデルスゾーン。重源が中国から持ち帰った建築技術は東大寺や浄土寺で開花した。そのように、誰かが感じたこと・表現しようとしたことは、後世の誰かの手によって発見され、新たな光を放ち出す。映像による表現で知られるビル・ヴィオラは<どんな小さな詩句であっても、人を介してそれは伝わる>とコメントしている。特定の場面で生み出された表現は、人を介することによってはじめて、普遍的な意味を獲得するようだ。たぶん、人には価値を再発見する使命が与えられているにちがいない。
エドガー・ヴァレーズの音楽である「砂漠」に映像を重ねあわせたヴィオラの仕事(1994)もそのような意味があった。彼は、そのパリでのお披露目で、称賛した観客のひとりから、私はヴァレーズの初演(1954)も聞いていますよ、と言われたという。アーティストに委ねられた再発見の使命は、実は一観客も加わって確認され、達成されたことになる。それで、さきほどのコメントが生まれた。表現しなおすことも、それを目撃することも世界にある「志」を引き継ぐために重要な役割を果たしている。だから、コンサートという形式が成り立つのではないか。
もうひとつ、溝口健二監督の無声映画「瀧の白糸」(1933)に音楽を重ねたのが望月京。修復された映像とそこにある台詞に、74年後に音楽が加わった。邦楽器とバイオリン、ハープ等を加えたアンサンブル。観客はどの角度から作品を読み直しただろうか。ドラマの本質はより明瞭になるが、異なるドラマが誕生していたと言うことができる。ここでは、異なる表現分野によって再発見し位置づけがなされることで、観客は視覚と聴覚とが本来近い位置にあったことを改めて知る。泉鏡花による原作がつくる想像力とも、じつは意外に近いかもしれない。どの時代も表現者の果たす使命は重いが、才能ある者はとても見事に本質を切り出している。
* いずれも、サントリーホールにおける今夏の公演から。