2007/10/31
No. 105
今年から始まったプロ野球・セリーグのクライマックスシリーズは、上位3チームで争われ、東京ドームで2位の中日が1位の巨人を圧倒して日本シリーズへの出場権を得た。敵の本拠での勝利インタビューで、落合監督は、あくまでセの覇者は巨人であることを強調し、観衆の促しに抗して胴上げをしなかった。これは勝者への敬意であり、敵地への敬意であり、次の試合へ手綱を引き締める意味があった。落合が名監督かどうかは知らないけれども、野球人としての見識・節度は感じた。「落合選手」がかつて巨人の一員でもあったからなのか?もっともこの配慮は巨人の悔しさを余計かきたてただろう。
敬意といえば、現在阪神のコーチの和田豊の2001年の引退試合を想起する。相手は巨人。最後の打席、和田らしい右方向への打球が飛ぶと、彼と同じポジションを守る仁志二塁手はいつになく出足が遅く、グラブの先を抜けてヒットになった。ボールは清原一塁手に戻ると、そのまま和田に静かに手渡された。私はそのシーンを甲子園球場で見ていたが、そこには名選手への敬意の自然な発露があった。試合はこのヒットを皮切りに阪神が得点し、結局長嶋監督の最終試合に土がついたのだが、和田は最後のあいさつのなかで、グラウンド整備を担当する阪神園芸への感謝の言葉を口にしたことが印象的だった。
ある意味、これらのエピソードは顧客へのアピールよりも「職能への敬意」が前に出たものと言える。それに比べると、ここ2〜3年の建築をめぐる関係者・報道の一連の発言ややりとりはどうだろう。どこか、専門の立場にある者に対する相互の敬意が欠けていたような気がしてならないのだ。そこに国民の不信や消費者保護という、分析がまだ十分でない理由によって相手を指弾しあうこともあった。もちろん社会からの眼差は大事なことなのだけれども、現実に即して、魅力ある・信頼性の高い建築をつくるために、各々の職域・職能でそれぞれが着実に努力するかを考えるべきだ。そのために、相手の尊厳を認めることが前提だろう。そもそも建築とはそういうチームプレイなのだから(すべての技術分野にも通ずることだ)。