建築から学ぶこと

2009/04/22

No. 178

響きと言葉が結ぶもの

その初老のフランス人は、なかなかいい響きのする声を持った人だった。会話の中で彼の姓と声が気になったので、あなたはあの作曲家とご縁があるのですかと聞いてみたら、そのとおり、私は彼の甥です、という答が返ってきた。ホテル経営に携わるその人がアルチュール・オネゲル(1892-1955)につながる血筋と知り、私は思わず感動して手を取った。

オネゲルはスイス系のフランス人という出自で、2度の大戦間のパリで詩人ジャン・コクトーが引きあげた若手「6人組」のひとり(他に有名なのはミヨーとプーランク)である。作風はパリのエスプリといった風情ではなく、深々とした感動に包まれる「クリスマス・カンタータ」やオラトリオ「ダヴィデ王」といった宗教的なカテゴリー、ドイツ風の厚みを持つ5つの交響曲、交響的運動という名称でくるまれる「パシフィック231」や「ラグビー」など、多様ながら安定的に作品を生み出してきた。いろいろなリズムや協和しにくい響きを巧みに重ねあわせようとするチャレンジ精神はあっても、新理論の提唱者ではない。むしろヨーロッパ音楽の正統的な継承者というべき人である。

つまり、厳密な抽象性を追求しなかった点で、建築の同時期のデ・ステイルやバウハウス的な動きとは交じりあわない。「6人組」結成の1920年は、建築家ル・コルビジェの「エスプリ・ヌーボー」発刊と同年ながら、異なる方向へと進む。けれども、革新者ル・コルビジェ(1887-1965)が生涯かけて熟していった歩みとは、だんだんと符合していったように思われる。オネゲルはスイス生まれのこの建築家と出身や年齢が近く、双方には機械への関心が共通するなど、本来近親性があるふたりだ。ル・コルビジェは最終地点として「ラ・トゥーレットの修道院」(1960)に至るが、その設計担当者であったヤニス・クセナキスが作曲家に転進するまえに、オネゲルに師事して作曲を学んだことは興味深い。

実は私は学生時代にオネゲルが書いた「わたしは作曲家である」を買い求め、傍線を引きながら読んでいた。その本で彼は、さまざまなスケッチを試みたり拾いなおしたりしながら作曲を進める過程に触れ、「才能とは再出発する勇気である」という一言を導いている。その言葉は、製図の課題に取り組む私を励ますものであったが、その後ずっと私に欠かせない重みを持ち続けている。甥と会った私の感動には、そうしたことが含まれている。

佐野吉彦

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