2010/11/10
No. 253
ウィーン・フィルの日本公演に、アンリ・トマジ(1901-1971)の「トロンボーン協奏曲」(1957)が入っていた。ソロを務めるキューブルベックのデリケートな妙技が印象に残る。トマジはありとあらゆる楽器の協奏曲を書いているけれど、聴く限り、敬意を抱くプレイヤーの存在を前提としている感じがする。ちなみに、武満徹(1930-1996)による甘いトロンボーンが響く「ファンタズマ/カントスⅡ」(1994)という協奏的作品にも、作曲家の同じような眼差し、あるいは愛情がある。決して抽象的に楽譜が先行したわけではないのだ。それにしても、クラシックのソロ楽器になりにくいトロンボーンにスポットライトを当てるのは珍しい趣向。ピアノのような正確な刻みと、滑らかな手捌きを両面こなせるプレイヤーでないと成功しないからである。キューブルベックは、トマジの思いに対しても、観衆に対しても説得力ある技を披露していたように思う。
ところで、建築とは建築主→設計者→施工者という流れで意図が伝えられ、責任が生じてゆくと一般的に位置づけられる。ただ、こうした法と役割分担の明瞭さは良質の作品を生む条件のひとつでしかない。むしろバトンを受け渡す接点で、人と人がお互いどう具体的な関心を持ちあうかのほうがポイントだ。それはコミュニケーションの巧拙とかチームプレイとかいったキレイごとではなく、そこでの敬意に満ちた(もしくは追っかけに近い)関心こそが未知の価値を生むことになる。
建築家の自邸というケースはそれに該当しない流れであり、5度も自邸を設計した藤井厚二(1888-1938)の場合は、ひとつひとつが住宅設計論追究のためにあった。今も残る「聴竹居」(1927)は、それでも創意に満ちた作品となる。ピアノの名手ショパンがピアノの名曲(だけ!)を生んだようなものと言えようか。