建築から学ぶこと

2018/05/23

No. 623

下田で出会うひとびと

伊豆半島の南端・下田市街の両脇を固める<寝姿山>と<下田富士>という2つの山は、読んで字の如くの姿をしている。かつては火山の地下にあった「マグマの通り道」が地上に姿を現したもので、これらの山塊を「火山の根(火山岩類)」という。このあたりの建築に使われる「伊豆石」も根の一部であるらしく、それはこの地の建築に多用されて豊かな表情を生み出している。さらにまちの至るところで見かけるナマコ壁の商家をはじめ、港町・下田は多様な要素にあふれている。
陸路からも海路からも、行き着く先の町は往々にしてそうなるのかもしれない。下田駅から港との間に広がる約12ヘクタールほどのグリッド状の市街地は、ニュー・オーリンズ(ルイジアナ州)中心部にある、スペイン色が漂うフレンチ・クォーター地区で感じたのと同じような、濃密な印象を宿している。まさに長年にわたる交流と交易がつくりだす景観というべきもの。もっとも、下田の規模はフレンチ・クォーターの1/10でしかないのではあるが。
この地はまた、下田条約(1854と57)で名を知られる。太平洋を渡ってきたペリーやハリスとの間で「日米和親条約の付属協定」を締結したのも下田であり、ここで吉田松陰は密航を企てもした。また、戦後の下田は、ペリーの出身地ニュー・ポート市(ロード・アイランド州)との友好関係の維持、上陸したペリーが歩いた道の整備(ペリー・ロード)など、アメリカとのつながりを意識している。今年79回を数える「黒船祭」(毎年5月開催)の企画にもずっと米軍が参加してきたが、かつての冷戦時には横須賀から空母も来臨していたという。いつもは静かな港町には、いざとなると歴史の先端に躍り出るマグマが潜んでいるようだ。

佐野吉彦

ペリー上陸の地で、来航記念碑への献花式、下田とニュー・ポートの姉妹都市提携60周年式典

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