建築から学ぶこと

2010/06/30

No. 235

ユニフォームをめぐって

私が卒業した私学の中高には、服装の定めがない。正確に言えば、私の在学中に短髪の規則、制服制帽がなくなったのである。1968年ごろに生徒から要望が生まれ、学校側がそれを正当なものとして認めた。全国的にプロテストの動きが盛んな時節にあって、学校側も無用な混乱を避けようとする思惑があったかもしれない。1969年長髪解禁、1970年制服制帽自由化。自然な流れで状況は転換した。そこから私の卒業まで3年ほどあったが、一斉に私服になったわけでもない。見かけ上、ばらばらな期間が続いた。

ともあれ、生徒にとって重要であったのは穏健な革命を達成できたことであろうか。1970年には、生徒の発議によって教育問題を考える3日間の自由を獲得することになったことは、本連載の第36回で触れたが、師弟のあいだには目立った対立やしこりは生まれなかった。今振り返ると、教育指導の面で、服装の定めを必須と考えなかった学校側の判断は敬服する。そのときに2学年上であった、現在母校の校長となったWさんは最近、「制服があると、生徒は朝起きて何も考えなくても、学校に来れば一見学ぶ形が整うだろう。それよりも、朝起きて何を着ようかというところから一日を始めることこそ自主的に学ぶ姿勢を育てるのだ」と述べている。すなわち、服装の定めがないことを積極的に教育指導の大事な幹と捉えている。

制服のある大抵の私学はそうは考えないないだろうし(優れた学園建築と制服のある風景はとてもバランスがいい。私は大いにそれは評価する)、1968年という時節がなければ、長髪解禁程度で留まったかもしれない。Wさんは、40年ほど前の、歴史の転換点で教師たちが腐心して採った方針を、いまも大切に感じて受け継いでいる。それこそ教育に伝統があると言うべきではないか。その中で育った私は、<6月から9月まで、ご訪問の方は軽装・クールビズでお越しください>などという注意書を見ると、やや不満になる。命令されるものではないから。サッカーのワールドカップで、選手と同じユニフォームで応援するサポーターは、自主的ゆえに許容できる。意識ある勝手さは歓迎したい。

佐野吉彦

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