建築から学ぶこと

2023/07/26

No. 878

篤志のバトン

1916年、54歳になった植物学者・牧野富太郎は生活上の理由から、蓄積してきた植物標本を手放すことを考える。その窮地を救ったのが当時は大阪財界の大物だった久原房之助(1869)と、まだ京大生だった資産家の池長孟(1891)だった。久原は同じく明治の大阪財界の雄・藤田伝三郎(1841)の甥であり、のちに日立グループを創始した人である。池長は資金を提供しただけでなく、1918年には標本を収める池長植物研究所を神戸に開設したことから、牧野は神戸でも活動し、人材を育てたと言われる。
そのように、人に投資した大阪の財界人には、鈴木大拙(1870)をサポートした安宅弥吉(1873)のような人もいた。安宅弥吉の長男・安宅英一は、現在東洋陶磁美術館で見ることができる安宅コレクションを充実させている。池長の方は牧野を支援したのちに、むしろ南蛮美術のコレクターとして著名になる。教科書にも登場する肖像画「聖フランシスコ・ザビエル像」や「泰西王侯騎馬図」(どちらも重要文化財)などは、南蛮美術館を経て、今は神戸市立博物館に移管されている。皆、文化の大パトロンである。
さて、その前の世代の大阪財界には岩下清周(1857)がいて、藤田や久原の面倒を見たり、小林一三(1873)が鉄道事業を始める後ろ盾になったりした。岩下清周自身はキリスト教の信仰を持っていたが、興味深いのは岩下清周の長男・岩下壮一(1889)が哲学者かつカトリックの神父となって、影響力のある存在になったことと、池長孟の三男・池長潤(1937)がカトリック大阪大司教区の大司教として指導力を発揮したことである。岩下清周と池長孟はそれぞれ学校経営も関わるなど、人材育成や篤志への熱意があったことが影響しているのだろうか。それ以上に、幼少期に馴染んだ教会建築から感じ取るものがあったのではないか。

 

参考:産経新聞(関西版)『朝ドラ「らんまん」の牧野富太郎 名門灘中・高に甦る「幻のロックガーデン」』 (2023.6.8)

佐野吉彦

夏の庭

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