建築から学ぶこと

2011/01/12

No. 261

それぞれの思いがつなげたレール

昨年は東北新幹線が青森に達し、この3月には九州新幹線が博多から鹿児島まで繋がる。1964年の開業から半世紀近く経った東海道新幹線はそこまで成長した。これを上回るスピードで延びている中国の新幹線といえども、日本がつくった「新幹線という成功のモデル」の延長線上にあることはまちがいない。その新幹線の推進に当たったのは、国鉄総裁として力を尽くした十河信二(そごうしんじ、1884-1981)と、技術面を束ねた技師長・島秀雄(1901-98)である。1958年に広軌別線をつくるゴーサインが出てわずか5年で全線開業に持ちこんだ集中力は凄いものがある。結果として戦後日本を大きく前進させた5年。世界を活性化した5年とも言っておこう。

鉄道開業以来、ずっと狭軌(1067mm)が続くJR在来線だが、かつて後藤新平(1857-1929)は明治末期、これを広軌化(1435mm)して高速ネットワークを構築することを考えていた。潰えたその執念を十河は受け継ごうとし、島をチームに引き入れたのである。実はそこには前史があった。後藤は、鉄道院総裁、満鉄総裁、関東大震災の帝都復興院総裁などを歴任したほか、建築と都市計画に関わる制度づくりにかかわっている。まさしく後藤は国家インフラのデザインに携わった人だ。鉄道院と帝都復興院において後藤の下で働いた十河は満鉄にも在職することになり、彼の多様な局面でのノウハウはのちに日本の戦後復興に活用されることになる。片や戦前の日本には1930年代末期に東海道に弾丸列車計画があり、広軌別線敷設は一度構想が進められた時期がある。鉄道省の検討チームには、島がいた。かくて、国内外で積み重ねてきたさまざまな知と、それぞれが抱き続けた執念が5年の疾風怒濤を可能にした。

新幹線というモデルに物足りないことがあるとすれば、新駅の駅前市街地の成熟において十分功を奏していないことである。そこにはいまだ街と列車のスピード感のギャップが残る。1964年に出来た新大阪・岐阜羽島・新横浜の成熟もこれからである。

佐野吉彦

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