2013/11/06
No. 399
近代から現代に至るまで、社会制度や都市計画などの面で、日本はドイツから多くを学んできた。森鴎外(1862-1922)の医学も後藤新平(1857-1929)の公衆衛生行政も、ドイツを介して知識を拡げ、日本のかたちをつくりあげる作業をした。それは今日ある両国の親和性の下地を作っているように思う。国レベルに限らず、たとえばハイデルベルク市(ドイツ)と熊本市は姉妹都市としての交流が長い。どちらも古城で知られ、川もしくは濠が景観のアクセントになっている都市。ハイデルベルク大学が生化学分野で先進的であるところは熊本にも当てはまるが、環境先進都市政策を打ちだし低炭素都市づくりを目指すところは議論が噛みあうところだ。双方の街の中心で路面電車がうまく機能しているあたりも、共通の土俵に載っている感じがする。
さて、志賀重昴(しがしげたか・1863-1927)は、徳富蘇峰らとともに、明治中盤に起こった日本の文化アイデンティティ確立運動の担い手である。彼は多くの見聞・踏査をもとに著した「日本風景論」(1894)のなかで、近代日本が標榜すべきイメージとして日本の風景美を位置づけた。同著にある「登山の気風を興作すべし」というくだりは、日本の山岳が有してきた神秘性を解き放つきっかけとなった。それは小島烏水(1873-1948)を感化し、日本山岳会の設立(1905)のエネルギーを生みだした。
志賀は風景に精神的な意味を与えたが、観光対象として明瞭なブランディングを施す仕事をしたとも言える。岐阜県を流れる木曽川の中流をドイツのライン川に見立て、「日本ライン」と名付けたのはなかなか見事である。犬山を目指す「日本ライン下り」の乗船場である太田(美濃加茂市)は中山道の宿場町であり、木曽川の渡しの起点。この地にある祐泉寺を訪ねると、志賀重昴の墓碑とともに、松尾芭蕉や当地生まれの坪内逍遥(1859-1935)の歌碑にも出会う。ここに滞留して眼前の急流を凝視した志賀は、文学的想像力を育む太田の空気に包まれて、ドイツに想いを馳せたのだろうか。