2020/05/20
No. 721
遠出が減っていたこのところは、日常のできごとに、さまざまな書物の知見を重ね合わせる機会が増えている。きっと、映像やネットを通じて見聞きする言辞の多くがパサついていて、心に響かないからだと思う。こういう場面は、ものをじっくり考えることが重要だ。オンラインでの議論には充実感があるが、言葉が流れ去ってしまわないよう、気を付けたいものである。
同じことを、ずっと続けているランニングについても考える。「なぜ人は走るのか ―ラン二ングの人類史」(トル・ゴタス著、筑摩書房2011)によれば、インカ帝国の栄華を支えたのは、発達したコミュニケーション手段と道路網だった。道路は可能な限り直線に敷かれ、「チャスキ」と呼ばれるプロの走者集団が、優れた伝令システムを作り上げていたようだ。日本で言えば飛脚システムである。ランナーは、近世に至るまで、またどの地域においても、何らかの使命を背負わされており、古代ギリシアでは優れた身体能力を競う大会が市民を熱狂させ、山岳の宗教では修行のために峰々を駆ける。走ることは目的達成の手段に位置づけられてきたのである。
それに比べると今日のランには自由がある。だが、本の締めくくりに、「現代のランナーは、古代人の生存を賭けた戦いでの動きを模倣している。わたしたちは、古代人とはかなり異なるやりかたで、だが同じ人間として、生きるために走ったり、歩いたりしている」というくだりがある。じつは、現代のわれわれは、走る理由など難しく考えずに、純粋に身体を動かすことを楽しんでいるようにみえて、そこで身体と対話し、いろいろな記憶を思い起こし、また願いを重ねている。それを発見するだけでなく、ここに、異なる時空のランナーが感じたことを結びつけてみると、さらに走りは奥深いものになる。(口は覆っているが)じっくり走るにはいい季節である。