2006/09/13
No. 49
私のように、戦後教育のなかにひたってきた者にとっては、昨今の「戦後教育が日本をダメにした」などの論調に接すると、途方に暮れる。いろいろな問題はあるだろうが、根本的にだめなものだろうか。ただ、そういう私でも気になる戦後教育の非力なところは、集団優先主義が個人の存在を見えにくくした(あるいは、見えにくいままだった)ことだと考える。問題が起こったときに皆で解決に当たるという姿勢は、高度成長の時代はパワーをもたらした反面、個人の功績を浮かびあがらせにくいものとなった。また、何か不具合があっても、個人の責任は問われないということもしばしばあった。正しい「個」が十分育てられてはいなかったのだ。
教師が育てるべきものは、自立した倫理観ではなかったか。自分の考えは自由に述べて良いけれども、その発言と行動に責任を取れるかどうかが肝心である。自分が信じることなら、きちんとした議論のもとに合意形成を図り、最後まで経過をコントロールすべきことを教えること。倫理とは、どこかに書いてある手本を受動的に守ることではないのだ。こうしたことは建築家教育においては特に重要なことである。思考とプロセスと結果に不一致があれば建築として成り立たないのではないだろうか。おそらく、「建築において逃げない姿勢」とは、ベイシックな教育で身につくものだ。
さて、この数ヶ月、建築士法改正をめぐって続いてきたさまざまな議論がまとまろうとしている。建築士という資格をイチから組み立て直すことは現実的でないので、受験要件や責任の明確化に向いてゆくわけだが、建築士資格という形式を有することと、真に自立した能力のあるプロであることとは必ずしも一致しない。議論の手間をかけるなら、実務能力を正しく判断する方法についても考えてみたいものだ。正しく育てる方法についても、もちろんである。