2009/02/25
No. 170
いくつかの、卒業制作展や修了制作展を見にゆく機会があった。彼/彼女らは、ある期間で何を究め、何を達成したか。学外で一般の目に触れる場所での開催となると、制作意欲も自ずと真剣になるだろう。それに触れる楽しみがある。
そのひとつは横浜市内(註1)での「東京芸術大学」の先端芸術表現科の卒業生たちと修了生たちの多様な表現である。それぞれが磨いた個性ある方法論を味わうのも楽しく、また展覧会場全体のセッティングもうまく整えられており、面白い。会場は、オフィスあるいは倉庫を転用したギャラリーという「性格俳優」をうまく使って、性格の異なる成果が干渉しあわないよう工夫されている。ここでは、空間と作品が反応する可能性にこだわる者がいる反面、空間と関係せずにテーマを究める者もいるのが興味深い。
たとえば修了展には、知人である大崎晴地さんも作品を出していた。身体というものの本質を掘り下げる主知的な試みは、彼にとってのこれからの行動宣言と言える作品であろう。その大崎さんが「連結のランドスケープ」と定義した評論(註2)を書いている、同年次の荒神明香さんは、紙片の細かいひだをつなぎあわせたスクリーンを、おおきな空間のなかに自然に布置してみせる。
彼女のようにすでに作家として名が知られている人は、修了展には違う視点で向きあっているかもしれない。その作品は、ただちに社会的な評価を受けてしまうからである。その一方で、こうした節目での建築の学生の作品はそのまま売れることはない。その方法論と成果は、実務のステージで花開くまでの長い時間、それぞれの問題意識となって沈潜することになるだろう。京都文化博物館で「京都工芸繊維大学」の卒業制作展と同時に開催された大学院建築設計学専攻の修了展では、修士号授与という制約を背景にしつつ、それぞれの建築造形の基盤を固めにかかっていた。そこにある数々の試みは切れのあるものだったが、建築の場合、それらをまもなく乗り越えて先へ進まなければならないのだが。