建築から学ぶこと

2007/11/28

No. 109

片岡安の肖像

片岡安(かたおかやすし、1876-1946)の軌跡は実に興味深い。大阪において建築家として恵まれたスタートを切った片岡は近代都市における課題を掘り起こし、建築にかかわる法令制定に力を尽くした。それが20代・30代の仕事で、40代は建築団体を育て、大阪工業大学を育て、経済界にその存在感を示すことになる(ほぼ大正時代と重なっている)。そののち彼は労働問題への関心を高め、晩年は戦時中という困難な時期に大阪商工会議所会頭を務めた。なかなか、ダイナミックに展開した人生である。

片岡は、建築家としては若い時期、辰野金吾(言うまでもなく、東京駅の設計者である)の共同者であり、日本銀行大阪支店や旧大阪市庁舎(現存せず)、大阪市中央公会堂(原案: 岡田信一郎)をまとめている。実業家の養子に入ったこともあり、片岡は明治末期にあって日本で最も多忙な建築家であったと思われる。そして御堂筋が大阪を代表する景観となりえたのは、当時の関市長と片岡が尽力してできた法令ゆえである。都市計画においてもリーダーであった。一方で、彼は建築設計に終生専念したわけではなかった。そのぶん安井武雄を育て、続いて石本喜久治を見出し、さらに関西建築界のリーダーの役割を竹腰健造に委ねるなど、名伯楽・名教師と言うことができる(ちなみに3人はそれぞれ安井建築設計事務所・石本建築事務所・日建設計の草創期のリーダーである)。

想像だが、彼は優れたリーダーながらも、清濁併せ呑むタイプではなかった。あくまで技術を積み重ね、独自の知見を鍛えながら次の一手を考えていった人である。腰は低くなかっただろうが、協調することはできた。おそらく、建築家という職能に対するプライドを高く持ち、その能力をいかに社会に奉仕することを考え続けた人なのではないか。少なくとも設計報酬の社会的認知・定着に骨を折ったことについては、現代の建築家は心から感謝するべきであろう。

佐野吉彦

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