2018/05/30
No. 624
1971年の盛夏、神戸の高校生だった私は山陰路のひとり旅に出た。岡山から伯備線で米子に抜け、出雲市に近い立久恵峡のユースホステルに1泊したあと、山陰本線の鈍行で浜田市に向かい、街中にあるユースホステルに3泊し、その後は下関にたどりついて、夜行で神戸まで戻るというものである。予め立てた旅のプランは、山陰路に残っていた蒸気機関車を追いかけることだけだったが、その目標はほとんど達成できなかったと思う。車窓から見る街並みの特徴を小まめにメモし、車中で土地の人に話を聞いているうちに、この地の風光に興味を抱き、浜田では予定外の長逗留をする。
旅の始めの出雲平野の記憶は、波高い宍道湖の水面と、築地松と呼ばれる屋敷林を伴う集落が散らばる景観である。そこから西に向いて石見の国に入ると、石州瓦の屋根の艶めいた表情に目が留まった。最近松江を訪れ、知人にその印象を話すと、そのころからは築地松も松の密度が減っているらしい。一方の石州瓦と出雲瓦の個性の違いは健在であるようだ。
浜田では、知り合った同世代とともに泳ぎにゆき、荒れる海で少々危険な目に遭ったり、街の人に誘われて夏祭りで夜更かしをしたり、今思い出しても濃密な数日だった。何ら有名観光地には行かなかったが、16歳の高校生は、風土とは眼に見える風物と、それとともにある人の暮らしが合わさったものと実感するのであった。
実は、この旅での鮮烈な記憶がもうひとつある。それは浜田を発つ朝に、駅の売店で買った新聞の一面にあったドル・ショックの記事である。その前の年に大阪万博の喧騒があり、春から初夏にかけて我が高校にちょっとした政治闘争のクライマックスがあったあと、1971年は不思議な静けさとうごめきがあった。その朝の記事の重さはあとで知ることになるのだが、車窓から眺める日本海の青さに翳りが生まれたような気がした。今日は時代の節目なのか。自分の行く手に待ち構えるものへの身震いを感じたことを覚えている。