建築から学ぶこと

2010/09/08

No. 244

よりどころとなる感覚

この記事を配信する9月8日になっても、相変わらずの夏日和。猛暑日が続いていて、暦にある季節感とずいぶんずれてしまっている。通常、この時節には、夜半の雨などをきっかけに夏の空気が秋のそれに入れ替わる瞬間が立ち現れる。私にとっては1年のなかでとりわけ印象の深い出会いなので、早くその瞬間が来ることが待ち遠しい。

私は、この長かった夏を一概に季節感の喪失として嘆こうとは思わない。人にはそれぞれ固有の季節感や自然認識があって、それらを日常や成長のアクセントに反映させている。それが原風景というべきもので、たとえ実際の都市環境に変化があったとしても、個人ごとに現実と原初のイメージとの間にうまく折りあいをつけているのではないか。そうすることで心を穏やかに保つことができる。データに基く環境論や都市論で未来を悲観することはもちろん重要だが、それぞれの感覚をキープすることで凌ぐことができるのも、人が育んだ知恵だ。

さて、今西錦司氏(1902-1992)はエッセイでこのようなことを書いていた。
「夕日がさして濃い陰影のついた北山を、加茂川*のほとりに立って眺めるとき、その北山は中学生であって私を、はじめて山に誘い入れたときと同じ迫力をもって、今も私の心に迫ってくるのである。すると私はやはり心の奥に何かしら不安に似たものを感じ、それがしだいにひろがって行くと、もうすべてのことがつまらなく、ただただ遠い彼方の見知らぬ国々に渡って、人知らぬ自然の中へ分け入ってみたいという願望に閉ざされてしまうのである。北山は罪なるかな。」

私にとっての原点は阪神間の脊梁をなす六甲山であり、その新緑の山肌や積雪の光景に心を揺さぶられ、ずっと稜線の先を遠望していた。人が人生や風景に抱き続けることになる感覚は、私の場合、どうやらそこに由来している。ここまで現実と折りあうことができたのも、この風景が発するメッセージゆえだと思っている。

* 今日では鴨川、出町柳から上流は賀茂川と書くほうが一般的。

佐野吉彦

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