建築から学ぶこと

2023/01/11

No. 851

夢の通い路、まだその先へ

1970年代の中盤は、建築がモダニズムの先を模索していた時期である。社会も政治も同様だっただろう。そのような時期に建築を学び始めてみると、同級生は皆、磯崎新の存在を気にかけていた。中央線の吉祥寺を過ぎた車窓から見える貝島邸(1977)の存在感はまぶしかったし、先取りする言葉も魅力的だった。その頃の私は盛期ルネサンス建築に惚れ込んでいたが、磯崎の導きなのか、マニエリスムに興味をずらし、さらに建築史の針を動かしてブレ・ルドゥー・ルクーの造型に出会うのだが、それがまた磯崎の香りがした。やがて、都庁のコンペ(1986)での磯崎新案は切り口が独自であり、このコンペ全体に奥行きを与えるものとなった。
さて私は、30代半ばになった1990年代初めに、雑誌の中の存在だった磯崎新を、目の前で磯崎さんと呼べる機会を得た。磯崎さんが率いていた「くまもとアートポリス」草創期の某プロジェクトである。しばしば磯崎アトリエ、時に近くの磯崎邸で、また熊本で、打合せに加わった。磯崎さんは人材を吸い寄せるマグネットだったが、うまく突き放したりもしていたので、協働した八束はじめさんも吉松秀樹さんものびやかに動けていたのではないか。彼らの後年の活躍を見ると、磯崎さんは人を動かすマグネットだったと言える。実際、くまもとアートポリスも、同時に動いていた福岡・香椎のネクサスワールドも、磯崎さんらしい手綱さばきで名作と人材を生みだし、そこから地域を元気づけたことでもわかる。
磯崎さんは長い道のりの中で、自ら話題作を手掛けつつ、つねに新鮮な仕掛けに取り組んだ。昨年末の逝去に際して多くの人がコメントを出しているが、交流のあった人それぞれが印象深い場面を記憶しているのは興味深い。それは素朴な物言いから本音に触れる瞬間なのだが、やや謎めく示唆でもあって、そこから新たなテーマを見出した人もいる。こうしたエピソードを集めただけでも一冊にまとめることができるだろう。きっと希望を与える書物になるに違いない。

佐野吉彦

都市住宅の表紙、ペンネームの本、至るところで磯崎の刺激が。

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