2021/06/02
No. 772
大学の講義は、このところ対面とリモートのスタイルを使い分けて進んでいる。それでも、数学科の教師には板書で教えるスタイルが気軽に使えないのはつらいようである。思考のプロセスを描きながら示し、生徒がそれをたどりながら理解するのは確かに効果的だ。板書授業は、抽象的な構成を、人の身体を通して、手ごたえあるものに変化させる時間であり、数学教育の生命線であるのだろうか。もっとも、教える側が同じ綺麗さで描いても、小学校の授業なら、生徒には、そこにある知の全容を書き写して覚える修練になっているかもしれない。黒板から導きだされる人の動きはさまざまなのである。
それぞれの特性をリモートで達成しようとするなら、画面に情報を詰め込みすぎないよう配慮し、教師が描く手の動きをうまく見せるといった工夫が必要になるだろう。黒板もホワイトボードもまだまだ有効であろうが、リモートの利点を組み合わせると進化の可能性があるとも思われる。ところで、ホワイトボードの方には、黒板とチョークにある、権威性を帯びた空気がない。どちらかというと少人数で、チャートを修正しながら課題を整理する議論に向いており、正確な線やグラフを描くところはPCに任せるという、アバウトさに優位性がある。
建築学科にも板書スタイルはあるが、少なくとも設計演習のクリティックは板書向きではない。ここではずっと、生徒一人一人に向きあいながら、全否定・肯定ではなく、相互の思考プロセスの「重ねあわせ」を試みてきている。異なる視点を重ねながら能力を拡げるというのは3次元的だからでもあろう。一方向ではないのだ。数学教育とは異なり、リモート状況にもフィットするやりかたかもしれない。リモートで工夫すべきなのは、同級生・同僚のクリティックに立ち会って感じる刺激である。そこは大学教育での重要な部分だからだ。