2012/05/16
No. 325
人はどのように思想を形成するのか。それは、何かに興味を抱くことからはじまる。旅人は、ある使命を帯びて門を出ることもあり、自らのテーマを追いかけるために時を費やすこともある。そんなかれらは、旅や日常の傍らで、丹念に筆をとった。ドナルド・キーン著「百代の過客(はくたいのかかく)—日記にみる日本人」(正・続2冊:講談社学術文庫)は、そうした日本人の残したもののなかに、人の志を探り、その成長ぶりをたどるものである。かれらのありようは、まさに現在に生きるわれわれと等身大の存在である。9世紀の入唐求法巡礼行記から永井荷風に至るさまざまな日記が扱われているが、前半は、開国前夜まで。それらを見渡すとき、日本の歴史はかくも豊穣な道を歩み、成果を生み出してきたのかと感心してしまう。
後半は異国との出会いが幕開けとなる。眼前に現れる事象や人物に対して、ポジティブに応じるか応じないか、それはそれぞれの個の事情に帰する。人と積極的に出会い交わろうとする姿勢があった「奉使米利堅紀行」の木村摂津守やドイツにおける森鴎外を紹介する一方で、岩倉使節団の書記官として「米欧回覧実記」をものした久米邦武にはキーン氏は静かな好感を寄せる。久米は冷静に西洋文明を調査・記録する立場にあったが、「彼が観察者として特に明敏であっただけでなく、一個の立派な人間でもあったことが私には分かった」と記し、「なれるものなら、友だちになりたかった人物である」と続けている。
<異なるもの>は心から楽しむべきであるが、どのような知性が<異なるもの>と出会って、どのように新たな知恵を生み出すのかは面白いものだ。この「百代の過客」が面白いのは、知性たちのほほえましくもある「前史」が語られるからである。コルビジェの「東方の旅」も同様だが、森鴎外が本格的な成果を生み出すのは、日記の時代のずっとあとのことになる。