2012/05/09
No. 324
広島の中心部にある二つの重要文化財指定の建築。丹下健三の設計による広島平和記念資料館(1955)と、村野藤吾による世界平和記念聖堂(1954)である。丹下の列柱には引き締まった志があり、村野の窓には穏やかな感情が宿っている。趣向を異にしながら、いずれも細部に至るまでこだわりが感じられる名作と言える。その毅然とした造形が放つメッセージ性は歳月を経ても変わらない。まさしく建築と建築家の力にちがいないが、事を始めるにあたって、発注者がこの建築家に委ねるという明瞭な意思があったこともすばらしい。その時代の意思をも引き受けて建築が形をまとうこととなった。これらの竣工を力として広島のまちは戦後を着実に歩んでいったのである。
ところで、重要な記録が展示されている広島平和記念資料館には、原爆投下直後の都市模型が置かれている。それ自体の悲劇は胸につまるものだが、戦後生まれの私には、ある時期までは、現代はそうした事態をすでに克服したのだと受け止めていたように思う。実際のところ、建築や都市計画の持つポジティブな側面が、時代を前に進めることに貢献してきたのは事実であり、広島の現在にあるスカイライン、穏やかな公園や河川風景、人・車・路面電車がつくるリズム感は、そうやって確実に組みあがっていった。一連の展示を過去のできごととして読むことは実は可能である。けれど、近年のように風景が壊滅する場面を、数次の震災などで幾度となく目撃してしまうと、決して落ち着いた感慨で見ることができなくなった。展示は、未来に委ねられ、投げかけられた課題を示しているようだ。
それでも、悲観的に時代を感じることにはしないでおきたい。この時代だからこそ、建築の専門家として何を精神として宿し、何を受け継ぐかをよりなおさら真剣に考えなければならないと思うのである。戦後は67年。二つの重要文化財の齢もまもなく60年に達するとなると、これからの都市に対する責任は、次の世代と建築が必ず引き受けることになる。広島でそんなことを考えていた。