2010/09/01
No. 243
今日のビジネスには、ネット環境に支えられる前提がある。PCやモバイルフォンなどのハード面もそうだが、それがもたらした情報共有、ソーシャルネットワーキングサービスを通じた新たなつながりかたにおいて、予測を越える進化があった。それもこの5年。変化にいちいち驚くよりも、これからの可能性を楽しんでみたい。人と情報、人と人とがどのように意外な出会いかたをするのか。でも、変わらないのは人と人の縁が信頼感というかたちに成熟してゆくことの妙味であろう。縁は波。広がったチャンスのなかに、成熟につながる萌芽を見抜く・読み取る感覚はますます重要になる。
もちろん、ひとつのチャンスが努力によって成熟してゆくのはうなずけるけれど、あとで振り返ると、本当にいい縁は必然的につながりを生んでいるものである。それを楽しめる感覚はさらに重要かもしれない。縁が人を介してぐるりと循環したりするときなど、見えざる手がデザインしていたのか?と思ってしまう。
ところで、「Brutus」8月15日号に、外房(千葉県)のいすみ市に住むエバレット・ブラウンさん(フォト・ジャーナリスト)の記事が載っていた。そのなかで、氏は外房に生きた彫刻師「波の伊八」(1751-1824)を紹介していて、行天寺にある波の造形が、葛飾北斎の神奈川沖浪裏の表現に影響を与えていることに触れている。余談だが、私は館山若潮マラソンにこれまで6回出場・完走してきた。このレースは、前半の10キロから15キロの、内房の館山から大海原の外房へと岬を回りこむ道が印象的である。このあたりで、身体のバランスを整えながら、右手前方に広がる海の表情で天候をチェックしているのだ。いつもながら多様な波形の発するメッセージは能弁で明瞭だと思う。
ブラウン氏によれば、その波形はヨーロッパに渡り、印象派の表現を導き出したものだ。それは偶然だったのか?いや、伊八が彫琢し、その成果を北斎が確かめに行ったのも、それを近代フランスが発見したのも、必然の導きであったろう。普遍性を有する波形は、きっと必ず見出されるべきものだったにちがいない。