2022/04/20
No. 816
2022年は、キリスト教では「復活祭」を4月17日に祝った。ルールとして春分を過ぎて最初の満月の後の日曜日と定められているので、毎年日程が移動することになる。このような決め方が聖書に書いてあるわけではなく、どこかで農事暦にフィットするようになったのではと思う(ちなみに東方教会では4月24日)。復活とは、架刑されたはずのキリストが現世に立戻るくだりではあるが、それに先立つ物語を悲壮な英雄譚で終わらせず、これからもメッセージを心の中に宿らせたいとのねらいが感じられる。キリスト教に限らず、世界宗教には、聖者の遺したメッセージを効果的に伝えるための手立てを考えていて、春はいろいろな宗教でこのようなクライマックス的行事が催される季節になっている。
一方で、個人の人生にもいずれは終わりが訪れるので、その人生から発するメッセージを生きる者がきちんと受け止めることも重要である。それは正のエネルギーにつながるものであろうから。先般幼少よりつきあいがあった人の死に立ち会ったが、この時節ながら幸いにも、病室を見舞うことが許され、そして教会での葬儀・緑に包まれた山あいの火葬場に至るまで、故人とも、私の家族も含めてゆっくりと時間を共有することができた。結果として私の身体の中では、そのように経過する<時間>と、さまざまな場で見送る<手順>を通して、どこか納得できる感覚に至った。
現代の都市の中では、そうした<時間と手順>はあちこちに分散している。それは土地の適切な役割分担であるとも言えるし、あるいは故人にあった土地との交わり、人との多様なつながりに気付かせる契機になるだろう。死はまたひとりひとり固有なものである。そこにあるさまざまな機能は、普段の視界から遠ざかっているのだが、決して手間を省いたり効率化を目指したりするものではないと思うのである。