建築から学ぶこと

2021/04/14

No. 766

水の都のたたずまい

江戸やローマのように丘の先端と谷あいにまたがるように形成された街は、遥かな源流から水路を延ばしてきて一度水を貯め、最後の斜面で水を落とすことをしている。ローマの名勝でもある噴水は、こういった仕掛けのもとで生まれた。巨大権威が力を持った街では、高度な技術が繁栄や文化の醸成を支えたのである。

隅田川から東向こうの江戸、大阪やベネツィアのように、低地に街区が形成されたところでは、衛生の観点から下水システムが発達した。上水については井戸からの汲み上げに頼ることになるが、そのうちに取水量に限界が生じる。かくして大阪では、太閤下水と呼ばれる下水システム(遺構が残っている)と、発達した運河を使って川の上流から水船が水を運んでくるという商売「水屋」が生まれた。やがて近代になって上下水道が整備すると、どの街も水の処理で日々苦労することは少なくなった。水辺空間は次第に生活や移動のインフラでなくなっていったが、そこに至るまでの、水をめぐる格闘の歴史がそれぞれの都市の表情かたちづくっている。

たとえば現在、仙台の中心部に出かけると、主要な通りの街路樹から緑の豊かさを感じることができる。市街地は仙台駅から見て西北の段丘地に広がっていて、基幹となる広瀬川は、この台地の西の裾を流れている。すなわち、丘の上の街はそこから単純に水を手に入れることができない。そこで、広瀬川のずっと上流から四ツ谷用水を分流させ、それが支流に分かれてゆっくりと台地/市街地をカバーして下ってゆく仕掛けが用意された。それが江戸時代の仙台の姿である。結果として用水は今日のこのまちにまんべんなく潤いをもたらし、あちこちで緑を育てた。杜の都は、じつは水の都だったのである。仙台が取り組んだソフトな水の扱い方は、仙台の姿を優美に見せることに寄与している。

佐野吉彦

「もう一つの広瀬川」
(仙台駅近くの案内パネル)

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