2015/11/25
No. 500
森田真生さんの「数学する身体」(新潮社2015)は、数学そのものと、数学に向きあう身体とが、数学がたどってきた歴史の中でずっと連関・連動していたことに触れている。幾何と、人が発する言語との間に緊張感があったギリシア。「形式」と「意味」を切り離そうとしつつ、両者が簡単に切り離せない関係にあることも明らかにしながら未来を拓いたアラン・チューリング(1912-1954)。人間の脳の中で、「空間」と「時間」と「数」にかかわる情報処理は分かちがたく融合しているのではないかと森田さんは記すが、すぐれた数学的な解決に向かうアプローチは、これからも人の身体を媒介にして、あるいは人が息づく環境のメカニズムとつながりながら続くと思われる。
ここで、数学を建築という言葉に置き換えてもいいだろう。たとえ地域の個性から育った技術とその意味を純粋に追究しようとも、建築がつくられるプロセスは人の固有性や、環境や時代の制約を免れることはできない。その上で建築の歴史が個別ばらばらにならずにきちんと語られるのは、建築と建築する身体がともに関わりあいながら前に進む力をずっと育み続けたからだろう。建築をつくる組織や建築の専門家を育てる教育機関は、今後もそうした力を蓄える場であってほしいものだ。
そのようなことを考えながら、この連載「建築から学ぶこと」を毎週欠かさず10年書き継いできた。500回の作業のなかで、建築とは豊かな広がりを持つ外延とともにあることを確認し、私自身が「建築する身体」のひとつであることを確認している。おそらく、題材が途切れなかったのは、まだまだ社会には「希望」がある証拠であろう。ここから先も、建築の使命、すなわち「希望」を静かに丹念にかたちにしてゆく使命を引き続き担ってゆこうと考えている。
※三鷹天命反転住宅については下記の号も参照ください
建築から学ぶこと 第492回