建築から学ぶこと

2008/02/13

No. 119

見取り図をつくる作業から

大学では、構法計画学を専攻した。建築のさまざまな手法を原理に基づいて分類・体系化することを試みていたのだ。設計者にとって使いやすい総覧をつくることを目的とするもので、具体的な構法の開発あるいは応用といった目的はない。原論をつくる作業である。2月になってようやく修士論文をまとめ、製本するにあたって私はあとがきを書き始めた。

「ガラガラのローカル列車は、ペルージャへ向って中部イタリアをのんびりと走っていた。トランシメノ湖という美しい湖にさしかかったとき、隣のボックスの初老の男が立ちあがった。外を見るためである。イタリアの列車に乗っていると、よくこんな光景に出くわした。坐っていても見えるけれども、立ちあがるとものは一層良く見える、そういう気は確かにする(研究室でものを考えていて、よくわからなくなると、立ち上がって考えてみるということは私にもあった)。そのとき、イタリアは透視図を生んだ国であったことを思い出した。ものを正しく見るための技術を生む基盤は、イタリア人のこんな習癖から来るものかもしれないと思った・・」

すでに論文は出来あがっているのに、そのときの私は、誰にでも使える普遍的な体系などあるのだろうか、個人の眼を通して世界は異なる実像となって切り出されるものではないか、と自らの成果に問いかけようとしていた。ただ、そのあとのくだりで、「世界に対して何かをつくりだす、たとえば建築をつくるという立場で接するとき、ある程度ものは単純に捉えなければならない。そうでないと何も判断がつかなくなるからだ・・」と記している。文・理の間、学問・実社会の間に碇を下ろす地点を測ろうとしていたのかもしれない。あとがきでは、そのあたりの葛藤を書き残そうと考えたようである。

当時、研究室の隣の席では、今もつきあいの続く、冷静なH君が緻密な論文を書きあげていた。私は完成度ではかなわないと思っていたのだが、振り返ればそれぞれの葛藤は論文の組み立てに確実に影響を及ぼしていたと思う。少なくとも、対象をどう分類・体系化するかというテーマは、私の問題意識にはフィットしていたのだ。

佐野吉彦

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