建築から学ぶこと

2009/07/08

No. 188

空間を問いなおすものとしての、声

俳優ロベルト・ベニーニがダンテの「神曲」を語るという公演が、イタリア国内で評判を呼んでいたらしい。ベニーニはアカデミー賞も受賞した「ライフ・イズ・ビューティフル」(1998)を監督・主演し、そのややオーバー目の表現が印象に残る俳優だ。私はこのDVDの一部を視る機会があったが、彼はフィレンツェのサンタ・クローチェ教会の前に立ち、その前の広場を埋め尽くした聴衆に向けて、低く抑えた語り口で物語を編み上げていた。神曲にある個性的な人間ドラマ。ラテン語ではなく、民の言語による文学を初めてただしい位置に置いたダンテの志。そして、会場である広場が有する歴史性。それらをバックに、いくぶんの妖しさを伴いつつ表現するベニーニの声に、この地に縁あるダンテやサヴォナローラの姿が重なりあう。

もちろんのこと、彼は政治家ではない。ここで語られる声は、広場という空間を正しく切り分け、意味を切り出す媒体となるものだった。あくまで、テクストと空間のなかにあって、隠れていた価値を掘り出すことはできまいかと格闘する表現者なのである。これと比較して考えてみたいものが、近年再び脚光を浴びつつある「ポエトリーリーディング」である。自らの詩を読むこと、あるいは音楽とのセッションのかたちをとりながら、声高でないメッセージを紡ぎだすこの表現形態には、1960年代の匂いが残っている。その語り口は、権力がつくったおおきな風景でなく、自らの身体の外延として実感できる場所において語られる。読まれる場所は、たとえばステージやライブハウスであったり、路上であったり、現代美術のある空間*であったりする。そしてここで、空間の境界線をどうまたぐか、どう空間の意味を再定義するかという問題意識に、詩人の声は向けられている。空間は、決して所与のもの、予定調和的なものとしては捉えられてはいないのだ。

これらの声が伝えようとしている意味は、もちろん重要だ。でも、それだけならテクストを読めば事は足りる。声の役割とは、それがそこで響くことによって聴き手の身体をゆさぶることにある。すなわち、空間を問い直すことになっているのは、時間を共有する聴き手なのではないか。

佐野吉彦

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