2009/07/29
No. 191
建築教育と職能の世界標準化をどう考えるか?そうした問題意識に立つ「建築教育国際会議」が開かれた(東京大学にて、7月17日-19日)。この会議をリードしたのは、難波和彦さんや阿部仁史さんたちであり、彼らの拠点である東大とUCLAのほか、世界各国の建築教育関係者が、東京に集まってきた。そのねらいは、標準化という流れの先にある、建築家を育てるためにどう使命を共有するかというものであるはずで、誰かが要求する一律化にどう共に立ち向かうかという議論ではない。何ら後ろ向きの話ではないのに、教える側は、昨今の世界の変転・反転を背景にして、一抹の不安を感じている。
ここでの不安のひとつは、コンピューターやIT技術の進展が、建築を正しくつくることを阻害しないか、という危惧である。リアルな社会状況と進みゆくヴァーチャルな構想とがきちんとかみ合っていないこと、それを学生が理解できていないこと、ヴァーチャルがリアルを導いてゆけないもどかしさ、などである。だがもちろん、学生とはそんなものじゃないか、と楽観的に捉えることだって可能ではないか。リアルを知らない甘いヤツという指摘は、いつの時代だってあったわけだから。
優れた学生は、技術を能動的に使いこなすことで設計能力は高まり、時代を変えるポテンシャルが身についてくるものである。前向けに考えると、結局は個々の意欲こそが不安を拭い去ってくれるように思われる。そもそも教員が先進的であるか、学生の志が高いかでなければ、教育の現場は成り立たないし、変わらない。今も昔もほとんどの教員や学生は保守的なのだから、一歩踏み出す勇気・一段掘り下げる冷静さをモティベートするのが教育の場ではないのか。たぶん、日本とアメリカの教育がどのように、なぜ違うかという分析をしても一般論的な結論は出ない。実社会と大学とを結びつけながら次世代を育てることは大事だが、安易な産学連携に頼らない、個性的で息の長い取り組みを期待したいと思う。