2020/09/23
No. 738
昨年出雲大社境内で開催された「建築学生ワークショップ」は、第8回目の今年は奈良・東大寺の聖域が会場に選ばれた。秋の一日に現地制作された8つの学生グループによる作品が公開された場で最終講評を受ける例年のパターン。何とか計画通り実現にこぎつけることができたが、オンラインが日常会話のツールとして定着している今年においては、今回のようなリアルな経験の大切さを、その場にいる人々が身に染みて感じていたようだ。この企画の歩みや作品の情報については当該ウェブサイトを参照いただくとして、東大寺大仏殿裏の午後、オープンエアでの審査会は興味深かった。私は、そこで多くの建築家や僧侶などが紡いでいた言葉を聴きながら、価値を創造する者にとって「リアル」とは何であろうかと考えはじめていた。
まず、リアルとはまさに「人とのつきあい」である。相手と場を共有すること、相手と対話することから、人は自らを変容させ、そして相手とともに新たな価値を生み出すことができる。リアルにおいての利点とは、異質な他者の存在を許容できることにちがいない。つぎに、リアルとは「物の重さを感じること」である。建築とは情報の伝達であるが、伝える者は実質を理解し、その実質をただしく伝えているだろうか。それは社会的責任にかかわる。この春からのオンライン建築教育のなかではその大切さをうまく伝えられていない可能性がある。
さて、このワークショップでは、画像でのイメージを制作に移行させたのちに、最後にある場所に設置する<現実>がある。重要なのはそこで何を感じるかである。それで良しとするか、出直すか。実際の建築もそういう場面があるわけだから、リアルとは「自らの感受性を鍛える経験」だと言える。なお、今回の東大寺での制作には、歴史の積層について学ぶ必要もあった。それも含めての<想像力>は重要であるから、リアルとは「知を掘り下げる努力」でもある。もしかして、リアルとリモートは対立概念ではなかったのか。