建築から学ぶこと

2009/05/20

No. 181

異なる色の三都

阪神間に育った少年の私には、大阪・京都・神戸という3都市は、それぞれ個性的な異世界だった。それにしても、大きすぎる。昭和30年代後半はターミナル駅のまわりも街の空気もざわざわと見えていて、子供心には、こういうところには住めないなあ、と感じていた。そのころの阪神間でも開発が進んでいたはずだが、都市の喧騒はそれを大きく上回った。どれもストックではなくフローで成り立っていた。昭和40年ごろに大阪の西長堀までしばしば出かける機会があり、どんよりと光る長堀川(運河)のことをよく覚えている。長堀川は行くたびに順番に埋め立てが進んでいて、それを目撃するのは興味が半分、不安が半分だった。

神戸は南北に傾斜している都市なので、祖母が入院している病院(そこで祖母は39年に没した)まで市電で登ると、風景は次々と変わってゆく。国鉄と私鉄が併走する区間が多く、つねに東と西にせわしなく抜けてゆく動きに活気があった。神戸も驚きに満ちていた。3都市の中で、ストックが比較的安定していたのは京都であろうか。その位置づけは今でも変わらないが、都心に住まうためのエリアがあって、そこがずっと都市の活動の中心というのは、のちのち日本に都心回帰の時代が到来するまでは希なる歴史であった。

これら3都市は、振り返れば例外的な状況にあった。そこまでもそこからも、異なる政治的・社会的課題に向きあい、3都市として束ねられることなく独自の歩みをたどった。建築でいえば、京都にある「学」の存在感は、京都のデザインに独自の陰影ある個性を育てたかもしれない。大阪が、貿易や製造業とともに「民間資本による建築活動」に適切な形を与えようとした動きと対比できるだろう。戦前戦後、水害・戦災・震災・感染に揺さぶられた都市・神戸が発信する知見は、これからが重要である。

どの都市も、フローが生み出す都市の不安定感とは、人が動いて絞っていることの証しであった。もしこの動きが止んで静かな関西になってしまえば、それこそ一層不安なことである。

佐野吉彦

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