2006/12/20
No. 63
ある日、六本木の青山ブックセンターで知人の野本卓司氏(グラフィックデザイン)に会った。彼は<ユリイカ>の11月号・大竹伸朗特集を探しに来たのだった。大竹氏と野本氏は学生時代、バンドを組んでいたこともあり、大竹氏の年譜にもそのことは書いてある。そのバンドがどういう意味を持つものだったのか。その探索も兼ねつつ、大竹氏の回顧展「全景」を見に行った。
次々と展開する展示は、かなりパワフル。文学的に表現するなら、少年期の夢想から痛切な青春を経て、いまだにエネルギーを発散し続けるアーティスト、ということになろうか。でも、それではありきたり。要は時代が変わろうと24時間、ひたすらものをつくっている大竹伸朗の全景が楽しめるというわけである。
片や、ひたすら写真を撮り続けてきた村井修氏の「都市の記憶」展も、写真家の全景が楽しめるもの。時に上空から、時に至近距離からと距離感を変えながら、時代が転換する場面、時代を変える決定的な風景を見逃さない。写真には、村井氏の身体がそれぞれの被写体ににじりよってゆく感じが伝わってくる。
ビル・ヴィオラのヴィデオアートも、いかに対象を写し取るかという点で興味深いものだ。この展覧会「はつゆめ」は、画像に映ったものを見て楽しむというより、画像とともにある時間を楽しむべきものだ。超がいくつも付くスローモーションをじっくり見つめると、いかにわれわれは大切な瞬間を見逃しているのか、と思う。
さて冒頭に書いた、哲学する雑誌<ユリイカ>では、しばしば尖ったアートやアーティストを扱う。でもそうやって大竹伸朗を掘り下げても、実は彼の表現には過剰な意味はないのだ。バンドは、バンド。コラージュはコラージュ。表現者は表現するために作業をおこなう。それを知っているからなのか、野本氏は、結局ユリイカを買わずに帰った。