2024/11/27
No. 944
10代前半に「日本の詩歌」という全集を読みふけっていた。近代日本には、北原白秋や石川啄木、室生犀星の著名な詩のように、故郷を思う名作が数多くあり、それは眼前にある、心身を蝕む都会の風景に、自らの大切な風景を幻視のように重ね合わせていた。あるいは少し下の世代の伊東静雄や中原中也のように、都会で時代の不安な動きを敏感に嗅ぎ取る人もいた。彼らにとっては、詩作とは欠落したものを埋める手段であったかもしれない。
以上のような粗い整理をしてみると、先日亡くなった詩人・谷川俊太郎(1931生)は自らを取り巻く風景も時代にも絶望していないように見えた。谷川の詩作はじつに広く親しまれてきたゆえに、日本の文芸を代表する位置に置かれるが、彼自身はきっとそのつもりはなかったに違いない。詩集「定義」(1975)を読み返してみると、そこには現実をいかに正確に捉えるか、人と事物の間にどのような力学が働いているかを見つめる曇りのない眼差しがある。もっとも、私はそれで谷川ファンになったわけではなく、同世代の作曲家・武満徹(1930-96)との対談での谷川の発言に興味を抱いていたのだった。それはじつに弾みのある対話だった。武満は創作の中で西洋と非西洋の間にある響きの差をどう乗り越えるかを追究していたが、やはりそこには絶望はなかった。
谷川のありようをきちんと知ることになったのは「詩人なんて呼ばれて」(語り手:谷川俊太郎、聞き手:尾崎真理子*)である。そこでようやく到達したのは、谷川や武満に宿る穏やかな明るさのようなもの、そして洒脱なところが、かれらが東京で育ったことに由来していたのではないかという理解だった。今年亡くなった建築家・槇文彦(1928生)にもそれはある。谷川の言葉「人間が先入観や知識、あるいは言語もなしに一人で地球上に立った時の感情、心の状態を詩に書こうと思っていた」(*から要約)からは、向き合い、解き明かす対象が過去の自分ではないことが伝わってくる。谷川俊太郎の思考の基盤は東京にある。
*新潮社2017