2025/02/19
No. 955
社会が成熟すれば、いろいろな場面で賢明な市民が育つだろう。そのために、近代国家は法制度を整備し、適切な教育制度を整えようとした。そして、ひとりひとりがさらに覚醒するために、コミュニティや社会にあるさまざまな組織が後ろ盾になる。そのような基盤のおかげで、人は、ものごとを進めるにただしい順序や必要な手続きをふまえ、倫理に基づくべきことを感得するのである。もっとも、個別には話が嚙み合わない・整わないケースがある。その困難は、合意を導くための対話の継続、それぞれの成長、法制度を活用しての調整などで切りひらくわけである。
こうした知恵を身に付けながら、人は一方で各専門分野を究めてゆく。もし建築の専門家であるなら、建築においても順序と手続きをふまえてこそ良い解にたどりつくことを社会に語りかける役割を担う。とかく世の中で起こることは領域も定義もはっきりしないものが多い。だからといって、民主主義社会における専門家は、現実を性急に決めつけない。複雑なしくみをあちこちでうまく運用しながら成果を導くものである。こうした社会にあること私たちは誇りに思ってよいのではないか。
しかしながら、法哲学者の安藤馨氏は、社会のバランスがこのところ揺らいできているとみている(*)。隣国や同盟国である大国でも、いや日本の自治体でも手続きを軽視した政治リーダーの姿をしばしば目撃する。安藤氏は「自身に好都合であるならば、手続きによって統制されない暴力を歓迎し、自身に不都合であれば、しばしば社会的圧力という手段によって、暴力的にそれを覆す」現状を嘆いている。本来、メディア報道は手続きを促す木鐸であったはずなのに、手続きをすっ飛ばして罰を与える爆弾に使われることさえある。誰もが納得できる結論を得るにしても、性急なアプローチは逆のベクトルを与える可能性がある。
*一橋大学教授(朝日新聞2025.2.13)
卒業設計、それは建築をつくるただしい手順の最終確認