2025/06/04
No. 969
私はある学校法人の理事を務めてきた。就任が決まった時期はまだ新型コロナウイルスの困難な時期にあり、大学の講義も研究も、そして理事会も、オンラインを軸に進められていた。これらは今振り返るといろいろな知恵を凝らしていた。おそらく大学の苦心は企業以上だったと考える。かくてコロナそのものはうまく乗り切り、それを含む非常時の対応策が定着したのは重要である。同時期に大学は私学法改正にも対応しているが、以上のことはどの大学も等しく降りかかっていただろう。このような場面を同じステージに乗って目撃できたのは興味深かった。
ところで、大学の歴史は1088年のボローニャ大学創始に遡ると言われる。社会学者エミール・デュルケーム(1858-1917)は、<大学のキリスト教起源こそが忘れてはならない理想、つもり国籍という偶然の要素から離れた「知的活動のための国際機関」を規定している>と述べている(*)。これはキリスト教を贔屓した発言ではなく、国家の運営とは独立して、人材と思想をただしく育む場の重要性を強調しているのである。そのような、学問にあるべき普遍性の観点から、相対性理論は一国の中の学問で閉じることなく、バウハウスで説かれたことは世界で花開いた。
大学の性格は一律ではないが、そこにあるプライドはこの時期から引き継がれているようであり、国家はそれに対して時に苛立ちを見せるのも、経済界が学問とは有用であるべきものと言い立てるのも、今も昔も変わらない。このところのトランプ大統領が大学に投げた過激な発言は、かつて帝政の時代にも、大学紛争の時代にも似たようなことはあったのではないか。大学の価値はそれでも減じてはいないが、政治には政治なりの理屈もある。うまく付き合うことを願う。
(*)「グランゼコールの教科書」に記載
名古屋控訴院地方裁判所区裁判所庁舎(1922,現:名古屋市市政センター)。大学も官庁も、建築の表情はどれも誇り高い