2024/05/08
No. 916
本連載の第249回(2010年10月)に、作家ポール・オースター(1947生)について触れたことがある。ここでは、お祝いの会に出向く道すがら、翻訳が発刊されたばかりの「オラクル・ナイト」を読んでいた話を紹介している。<「異なる物語」が交差・衝突したかと思いきや、それはひとつのサイコロを構成する面であったという、オースターらしい世界が展開(転回)し、完結する。>というふうに。この日の会場は求道会館で、お祝いの会の主役は日本建築学会賞を受賞した田村誠邦さんだったが、彼の軌跡とオースターの物語を並べてみて、<自らの発意で新たなページが開き、自らが対象を選び取ることによってこそ新たな現実が始まるはずという前向きの確信>がある両者の共通点を重ね合わせていた。
オースターが扱う素材は時に謎めいている。日常に至るところにさまざまな節目があって、そこに手を触れた途端、想像を超えるドラマが首をもたげる。実際、そのような幸不運は都市でしばしば起こりうるのだが、オースターはここで教訓を垂れるわけではなく、ドライに<世界は偶然でできている>という視角から語っているようである。読者が思い至るのは、それを生かすも殺すも自分なのだということ。人にとっての偶然は、結果として必然になってゆくだろう。
その頃から今に至るまで、この作家の作品はほとんど読み継いできた。小説をさほど読まない私には特例である。もっともここに柴田元幸さんの翻訳という杖があったことは幸いである。さりげない始まりから物語の転変まで、どこか主人公を冷静に眺める筆致は柴田さんの力でもある。日本での人気は彼なくして考えられない。実はひそかに新しい翻訳が出ないものかと気にしてきたのだが、先月末、オースター自身の急逝の報を聞くことになってしまった。