2025/07/02
No. 973
指揮者の村川千秋氏が93歳で亡くなった。村川氏は、1972年に自ら創設した山形交響楽団を、土の香りはするがシャープさも兼ね備える一流のオーケストラに育てあげた。さらに、その音楽的使命の先にある、地域にしっかりとした、そしていきいきとした文化の土壌づくりにも情熱を傾けた。山形交響楽団(山響)が創設以来、先駆的に取り組んだ「スクールコンサート」は、すでに5,400回を数え、子どもたちとそれが属する社会に質の高い音楽を届けてきた試みである。そこにある音楽的対話の中で演奏者も鍛えられる。すなわち、次の時代を見はるかす視野が、山形県内のほかの文化・芸術活動に好ましい影響を与えている。かくして、ここにある好循環は世界に広く知られることになった。山形に掲げた旗は、日本各地での活動に勇気を与える視点を備えていたと言えよう。
個人的な感慨ながら、私は山形交響楽団創設の前に指導していたアマチュアの学生オケの一員だった。もちろん作り出す音楽が密度高く格好良かったのだが、チャールズ・アイブズの交響曲第1番を日本初演するなど、プログラムも先進的だった。興味深いのは教え子のいくらかがその後、理系の大学における自らの専攻から音楽の道を究めることに切り替えて成功したことである。おそらく、音楽に対する深い愛情、音楽表現を通しての社会に対する使命感を学び取ったに違いない。
さて、この6月、この山響をはじめ、いくつかの音楽の活動体の演奏を聴いたり、運営を担う会議に参加したりする機会が集中した。現実的には、社会における文化・芸術活動は市場経済というプラットフォームなくしては考えられない。しかし、その駆動装置は表現者や演奏者の正しいモチベーションがあってこそ前に動く。音楽だけではないかもしれないが、持続性と独自性がつくる好循環があってこそ、様々な人材は育つのである。
村川千秋さんと(2017年5月)