建築から学ぶこと

Learning from Architecture

実業家が遺したもの:和歌山・大阪・京都

  • No.593
  • 2017年Oct11日

元来、和歌山は豊かな土地であった。保水力のある森、栄養分を含む水流は水産資源の安定と連動してきたはずである。そこから多彩な人材が育った。八代将軍徳川吉宗、紀伊国屋文左衛門、南方熊楠、松下幸之助と挙げると、広い分野で日本を代表した顔が並ぶ。ちなみに私の友人を思い浮かべても、この地の人々は陽気だがそれぞれの自負は相当だ。彼らは人を活かし、資源を活かしたのである。残念なことは、県都和歌山は第二次世界大戦で灰燼に帰したことであり、いまだに街並みに親藩らしい格調を欠いているのは、和歌山人としては口惜しいところではないだろうか。
和歌山城址と天守は戦後に再建されたが、和歌山市の南に接する海南市で常時公開されている「琴ノ浦温山荘園」は戦前から健常に保たれている。実業家・新田長次郎(1857-1936)が作った別邸で、建築物は概ね1916年に完成し、母屋は新田の女婿・木子七郎(1884-1954)が設計した。18000坪ある園地の空気からは、新田が企業[現在のニッタ㈱]を興した大阪と和歌山との志のつながりを感じとることができる。ところで1916年とは株式仲買人・岩本栄之助(1877-1916)が生涯を閉じた年である。岩本家は和歌山の出であるが、栄之助は資産を大阪中央公会堂(1918)建設に寄付したことで知られる。新田と同じ実業界にいた岩本は生前に琴ノ浦を訪ねたこ可能性があるらしい。
少し遡るが、住友吉左衛門(住友家15代、友純。1865-1926)は大阪府立中之島図書館(1904)を寄付していた。また、天王寺にあった住友邸も寄付されて慶沢園と大阪市立美術館の敷地となっている。岩本の相場でのライバルであり盟友の野村徳七(1878-1945)はのちに京都に別邸、現在の「碧雲荘」(1928)を建設した。このように明治末期から大正、昭和初期の大阪で活躍した彼らは、荒ぶる人生の途上で多くの名建築や庭園を遺した。そしてそれら多くは重要文化財となり、都市を代表する社会資産になったのである。

  • かつての紀州藩屋敷町

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