2025/07/22
No. 976
映画「国宝」(李相日監督)が高い評価を得ている。長じて国宝に登り詰める役者が、梨園にある背景と向き合い葛藤する物語。それは、主役を取り巻く人々の青春でもあるが、決して展開は急ぎすぎず、上滑りにはならないのがいい。随所で脇役に芸達者を配しているだけでなく、歌舞伎の舞台の華やかさや芸を磨く過程を丁寧に追っている。その仕掛けが観る者に安心感を与えている。しかし、そこでは伝統芸の世界に耽溺しているわけではない。至るところに都市の日常的な風景をさりげなく差し込むことによって、これが現代の物語でもあることを示唆している。
映画の中身はこの程度にしておくが、ここに登場する「曽根崎心中」のクライマックスには緊迫感があった。近松門左衛門が書いた人形浄瑠璃から始まった物語なので、舞台は近世大阪である。心中を遂げるのは現代の大阪駅に近いお初天神の界隈ながら、当時は中心地からは外れている。死地に至る道のりのなかで、今よりは流れの速い川を眺め、いくつもの橋を渡り、鐘の音を遠くに聞きつつ時が満ちてゆく趣向である。街の外れで展開する出来事に、当時の観衆はリアリティを感じていたかもしれない。やがて芝居の構成要素は都市化する中で失われたが、同じかたちの道路河川や橋梁からその距離感は感じ取ることはできる。歓楽街やオフィス街に変化した街における新たなリアリティもあるだろう。
2025年という時代に即して考えると、そうした古典の存在は今後の都市のアイデンティティにはなりえる。しかし、述べてきたような<現代との重ね合わせ>があってこそ、過去の物語はよりよく生きるのだろう。ヨーロッパでのオペラ上演に見られる試みと見比べてみるのも面白い。プッチーニの「ボエーム」で、本来詩人である主人公(男)を、ユーチューバーに置き変えていたものがあった。それでも恋愛は恋愛なのである。
ドラマの舞台は川面と橋(大阪)