建築から学ぶこと

2025/09/24

No. 984

志賀重昴とオマーン

中東の国オマーンは長らく英国の保護国だったが1971年に独立し、日本との正式な外交関係が翌1972年から始まる。それに先立つ1924年、志賀重昴(しがしげたか、1863-1927)が首都マスカットに立ち寄り、ファイサル国王に謁見した。それまでも日本との接点はあったが、この訪問が両国の交流の本格的な皮切りとなった。ファイサル国王は突然現れた志賀の話を聞いて大いに日本への関心を抱き、積極的な交易を提唱したという。なんだか千夜一夜物語のようでもあるが、国王はのちに日本人女性と結婚するという素敵な展開も起こる。

その志賀重昴とは地理学者であり、明治時代に活躍した言論人である。「南洋時事」(1887)、そして今日もよく知られる「日本風景論」(1894)などを著した。志賀は日本の各地を探訪し、豊富な挿絵を掲載した「日本風景論」を通して、箱庭的景観ではない、荒ぶる山岳の姿かたちこそを、日本が世界に誇るべき景観として称揚した。ちなみに、木曽川の狭谷ゾーンを日本ラインと命名するなど、志賀は見立ての天才でもある。自身は登山家ではなかったが、著書の中で山行の基礎技術にも言及して気運を醸成し、やがて日本の近代登山史の扉が開くきっかけを作った。

志賀は一連の著作のなかで、明治の人々が国家イメージを描くために旗を振った。国士と表現することもできる。「南洋時事」は海外事情を扱っており、それは日本が南太平洋に進出する空気の醸成に寄与した。晩年に近くなってオマーンを訪れた理由は、今後の世界には石油確保が鍵だと感じたからとも言われる。そこから100年、オマーンはホルムズ海峡の入口にあることから、今日も地政学的な重要性はあるものの、それを意識しないくらい、両国は平和で穏やかな関係を結び続けている。

佐野吉彦

万博のナショナルデーにて

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