2025/11/26
No. 993
2025年は大阪・関西万博が人を集めた年。まさしく、万博会場は非日常なるものに出会うことができる場所だった。閉幕後に、とりわけ人気のあったイタリア・パビリオンの展示品が、大阪市立美術館にしばらく移設展示されることになり、同じように長蛇の列の観客を呼び寄せた。余熱とも言えるこの流れの中で、美術館の新たな来場者は基本的な事実に気づいたかもしれない。それは、こうした美術館や図書館など、ゆるやかな日常性の中にある公共施設も、本来、非日常を体験できる場所だったのだと。きっとこれは公共施設をうまい方向に引っ張るいいチャンスになるだろう。
もうひとつの例として、これまでの公共図書館だけでなく、民間主体の「まちライブラリー」が全国各地で活動を拡げつつある動きにも注目してみたい。活字離れの時代かと言われがちな昨今にあって、駅ビルや再開発ビルの空スペース発生が、そうした取組みを後押ししているようだ。この動きは、人は単に立ち寄る場所を必要としているからだと要約することもできる。いや、そんな目的すらなくても、参加できそうなコミュニティがないかとか、偶然性に身を委ねてみたいなどの思いはあったかもしれない。そう考えると、図書館に行ったらたまたま上質のコンサートをやっていた、というのは十分に意義がある。いずれにしても「まちライブラリー」というカジュアルな公共施設は、多くの人が図書を媒介して起こる新たな出会いや発見を望んでいる事実を掘り起こした。
それぞれの腹の中が異なる動きは、公共の場を刺激し、結果として都市のダイナミクス形成につながるに違いない。だからこそ、運営者が官であろうと民であろうと、誰も排除しないという点を心掛けるべきである。そのための覚悟も準備も必要だが、包摂性、そして非日常性は公共の場をより魅力的に変えるのである。
*本稿は「美術館にアートを贈る会」シンポジウム(11/21)と、大阪公立大学「国際フォーラム /大阪アーバンデザイン国際フォーラム 〜森之宮を“文化の森”に〜」(11/16)での気づきに基づく。
公共の場にいきなりこんなアートがあっていい(イタリア館にあった、未来派のバッラの作品)