2026/01/28
No. 1001
年が明けて、北杜夫(1927-2011)の良く知られた作品「楡家の人びと」を読み通した(1964年出版)。登場人物は作家の生家である精神科病院の経営者一族と、彼らに関わりあう人たちがモデルで、大正から第二次世界大戦に至る時代の空気が、さまざまな眼を通じて語られる。この病院は少しずつ力を失ってゆき、それぞれの人々を引き裂く不幸もありながら、語りは穏やかに流れて、希望を残して締めくくられる。これを読みながら谷崎潤一郎の「細雪」を想起していた。こちらが扱うのは昭和初期の短い期間に絞られているのだが、稠密な語り口を通して、没落する商家への哀惜が語られている。
今とは違って、こうしたかつての邸宅には多くの家族が暮らし、奉公人も抱え、親戚やら外商やら出入りも頻繁だった。そこからさまざまな情報がもたらされ、豊かな「対話空間」が成立していた。「楡家」の場合は、時に敷地内にある病院の患者まで会話に加わってくるのだ。こうなると、建築の複合的なありかたが対話をうまく誘い出していたと言える。下町のつきあい方と比べてみると面白いと思うが、もはや家の中での多様性は弱くなっている。これらの小説が拠りどころとする世界が想像できない世代が増えているかもしれない。
さて、「楡家」を読んだのは、昨夏亡くなった義理の母の北村良子の蔵書の整理を手伝ったことがきっかけである。蔵書には当人のものと、姉である作家・須賀敦子(1998年没)のものとが混じりあっており、「楡家の人びと」も「細雪」も本棚にあった(須賀自身の著作は関係ある先に寄贈された)。姉妹が育った家も経営者一族なので、こうした題材をどちらも身近に感じたのは自然ではあるが、その家は知的な刺激のある環境であったと想像する。私が受け継いだ本の中には遠藤周作や大原富枝のものもあったが、これはどちらの本だったのだろうか。
英語版「細雪」(サイデンステッカー訳)