2026/07/15
No. 1024
人はどのように<対象>に向き合うのだろうか。文化人類学者が未知の地でのフィールドワークから多くの情報と知見を汲み上げるのは当然である。いくら地理情報や文字情報を得て臨んだところで、その空気の中でしか感じ取れないものがある。修練を積んだスポーツ選手がその日のゲームで読み取るもの、音楽家がその日のセッションで引き出せるものも共通している。制約条件は意識しても注意事項は与えられるものではない。建築が多様であるのも、建築家があらたな建築主との対話のなかでそれぞれ異なるチョイスに至っているからだろうか。おそらく、フィールドでは、当事者が静かに積み上げてきたものが、その場や相手によって突き崩され揺さぶられている。正確に言えば、当事者の身体が試されている。
橋爪太作(文化人類学)はそのことを、「なにかを経験するとは、知覚入力を通じて脳内シナプスのネットワークが組み替わる、それ自体極めて物質的な過程」であり、「脳が組み替われば、全体としての身体がなしうること(現地語を言語として話すこと、など)が新たに実現される」と説明する(*1)。つまり、よりよく感じ取る、あるいはよりよい展開を生むには、まず、自分と身体が変えられることを受け入れる状態になっているとよいのだろう。私の実感としても、新たな場面では身体がさきに変化を始めている。
そして、それを動かすものが当事者の身体に宿る「感性の力」である。それは時に自らを防御する力にもなるが、自分を新しくする力にもなる。伊藤亜紗(美学)は「感性は、本人が意識していなくとも、「建前」の奥底にある「本音」を、それが肯定的なものであれ否定的なものであれ、漏れ出させる力がある」(*2)と述べる。感性は磨くことが可能であり、自らが場の影響を受けて前向きに変容するための、背中を押してくれる。
外皮は観る者の身体に働きかける。@トーレ・グロリアス(バルセロナ。設計ジャン・ヌーヴェル)。