2026/08/19
No. 1028
大阪府堺市には、終戦の年・1945年に5度の空襲があった。被害が突出しているのは4度目の7月空襲で、死者1,860人、罹災者70,000人を数えた(*1)。産業都市である堺を狙ったとされ、中心市街地の6割が灰燼に帰したが、被害は住居地域に偏っている。戦後は、第1005回で紹介したように、堺ロータリークラブらの尽力でフェニックス通りが整えられた。これは誇るべき都市整備であり、風格を感じさせるが、中心部には、かつての歴史ある環濠都市の景観は残ってはいない。
中心部から北寄り、阪堺電車の綾ノ町電停周辺は空襲の被害が少なかったので、この周辺では井上家住宅(鉄砲鍛冶屋敷)や山口家住宅(重要文化財)などの商家を見ることができる。室町時代から江戸時代、堺は交易都市と鉄砲製造拠点として発展した。井上家も鉄砲鍛冶としての地位を江戸期に高め、住宅も間口6間から17間半へと拡大した。製造機能と居住機能を上手に継ぎ足しているところは面白く、どこかヨーロッパの都市住宅にあるアプローチと共通している。彼らが育てた製造業の基盤は、明治以降の刃物や自転車など様々な製造業の興隆へとつながってゆくのだが、それが空襲を引き寄せたとしたら不幸なことである。しかしながら、現在の堺市は、「人口一人当たり製造品出荷額など」が全国の政令市中第1位(*2)だというから、その活動基盤は底堅かったと言えるのではないか。
一方で、堺は茶道にとってはかけがえのない揺籃の地であり、与謝野晶子を生んだ文化の基盤がある。僧侶であり、仏教の源流を訪ねてチベットに至った逸材河口慧海は、井上家住宅の背中合わせにある修験道道場「清学院」で修練し、またこの街で宣教師から英語を学んだという。実に空気が濃密である。そして、良好な港湾があり、波の音も聞こえた堺は、若い魂を遠くへ誘う地であった。
*1 総務省データ
*2 堺市データ2026.7
井上家住宅は左手へと拡張した